修行時代のことを今日は書いてみます。
神様のように慕っていた母が亡くなって、ポッカリ穴が空いた私だった。
1981年、母49歳、私23歳。
そんな時、彫刻家の従兄弟が「帽子やらないか」と薦めてくれた。
帽子なんて全然興味が無かったけれど
国立のそのアトリエに行ったその時から魅了されて
即決、「私、やります!」と言ったのでした。
当時、確か65歳の関民帽子作家の
半地下になったアトリエは木の優しさと手作りの温もりと帽子たちがキラキラしていた。
もともと手仕事が嫌いでは無かったし
20歳そこそこの小娘には従分すぎるほど魅力的だった。
アトリエの奥は住まいとご主人(彫刻家関頑亭)の工房で
早速そのキッチンで焼肉定食をご馳走になったことを覚えている。
タレでササッと焼いた牛こまの大盛りと同じく大盛りキャベツの千切りと
シンプルを量でカバーする大盛りごはん、美味しさが忘れられない。
奥様はとてもにこやかで愛想が良かったが
ご主人は長い髭とモジャモジャ頭、愛想笑いもしない自然体。
火事で焼けて寄付で建ったという家は平家(一部半地下)の総檜造り。
華美ではないけれど見たことのない和モダンな作りで
サラリーマン家庭に育った私には別世界だった。
さて、意気揚々と翌日から通うことになったのだが
行ってみて丁稚奉公だと言うことに気づく。
「キョウコさん、まず、おトイレのお掃除からお願いね」と第一声。
丁稚奉公というのは社会の教科書に載っている昔の事と思っていた。
そんな世間知らずの私の驚きと戸惑いを想像して欲しい。
母親亡き後、父と祖母との3人暮らし、
本来なら住み込みだけど、あなたがいないとお父さんが困るから、、、
との理由で、通いで昭和の丁稚奉公が始まった。
気風のいい民先生と芸術家の頑亭先生、
ある意味温室育ちの私がカルチャーショックを受けながら
帽子以前の人間として勉強をさせてもらったのだ。
例えばミシンであっても一目ずつ丁寧に踏む
想うことが大切
ものづくりは心を大切に
思考と行動を交互に繰り返しなさい、、、
迷う時は難しい方に手を出しておけば間違いない
思い出すのは、こんなことだ。
42年の時間を経て万感が胸に満ちる。
未熟すぎてお話にならなかった当時の自分だけど、一生懸命だったな。
ごめんなさい。
そして、ありがとうございました。
これからも唯一無二の帽子を目指して作ってゆきます。
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いつもお読みくださりありがとうございます。
友達に手紙を書くように書いています。
気ままな私の帽子ものがたり、良かったらお付き合いくださいませ。
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